当サイト離婚協議書自動作成サイト 愛と契約web は養育費の自動見積もり機能を備えた離婚協議書をかんたんに作成できるサイトです。 世帯年収 から 養育費 の金額を自動設定するなど自動化要素も取り込んでいます。今回は、阪神大震災で被災して生活苦になり親権を失った  Gさん(男性・兵庫県)から 離婚体験談 を寄稿いただきました。

夫婦関係に悩む方々、離婚に向けて悩みを抱える方々にとって、指針となれば幸いです。

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はじめに

30年前に離婚した際は、子供の親権を得たのですが、阪神大震災で被災し子育てが出来なくなって、元妻にしばらくみてほしいとお願いをした結果、もう子供に会えていないつらい経験がございます。

そうした私のつらい体験をお話しさせていただきます。

結婚生活

結婚のなれそめ

長く付き合っていた彼女との関係が終わり、次の恋を探していたタイミングで、元妻と出会いました。

仕事の接待で使用したり、家族で良く飲みに行っていった馴染みのスナックで新しくアルバイトを始めた元妻と初対面。元妻は、看護師をしながらスナックでアルバイトをしていました。

はじめは特に気にならなかったが、飲んでいるうちに元妻の連絡先を教えてもらうことが出来ました。

翌日に、元妻に電話をすると話も盛り上がり食事に行くことになった。

場所は、元妻が住むマンションの近くの焼鳥屋さん。

お酒もかなり入り夜も遅くなったので、今日は泊まっていくという話になっていた。

元妻の部屋に入りもう少しお酒を飲みながら話をしていると、いい雰囲気になりその日のうちに関係を持ち、その後本格的に付き合うことになった。

週に何度か元妻の家に、泊まる生活をするようになった。

半年が過ぎたころに、私自身が次に付き合った人と結婚したいと思っていたことを話すと彼女から「じゃあ、結婚しようか」と言われあっけなく結婚を承諾してもらえた。

翌月には、両親にそれぞれが話を結婚したいことを伝えると、何の問題も無く両者の両親が合うことになり、併せて結納を交わすこととなった。

付き合い始めて8カ月と、とても速いペースで進み結婚式は、初めて出会った日翌年の同じ日に挙式を実施した。

父親の会社の関係者が多数ではあったが盛大な結婚式を実施し、その後すぐにアメリカ西海岸・グランドキャニオン・ラスベガスへ10日間の新婚旅行に行った。

結婚生活

結婚後、特に問題は無くいたって普通に生活をしていた。不満も全くなく幸せな新婚生活だった。

しばらくして、元妻の妊娠が確認でき、結婚から1年後に子供が生まれた。

小さな赤ちゃんをお風呂に入れたり、おむつ替えなども手伝いながら、小さな命を大切に2人で育てました。

離婚に至る経緯

子供が3歳になるころ。

当時の建設業と言うのは、バブル時代と言うこともありかなり豪快な接待が頻繁に行われており、飲んで遊ぶがセットで接待することが普通の状態でした。

今では考えれないのですが、遊ぶは風俗(ソープランド)への接待が普通で、逆にそれをしないとケチだと言われたり、現場でいたずらをされるなどが当たり前でした。

元妻もそうした状況を理解をしていたが、週に3、4回は接待で帰りが遅くなる日が続くようになってきた。

そのような生活に元妻は、自身は日勤をしながら子育てもしているのに、私は接待とはいえ女遊びをしているということが許せないという言葉が出るようになり、元妻はかなりのストレスを感じていた。

そのようなストレスが爆発し、言い合いや喧嘩が絶えない生活が続くようになった。

間に挟まれた子供に、両親の喧嘩の状況を頻繁に見せるのも良くないので、離婚をした方がいいと話をしていた。

すると翌日に、帰宅すると子供も元妻も家にはいなかった。

この日も夜中で、元妻に何度電話をしても電話に出ることは無かった。

翌日に昼間に、元妻から電話があり子供を連れて実家に帰っていると言われ、離婚届を送るので判を押して返して欲しいと言われました。

 

離婚協議の内容

子供は元妻が親権を持ちたいという意思表示があった。

しかし、経済的な面でこちらは会社の社長息子であり、金銭的に困ることも無いということで、協議の結果こちらが親権を持ち子供は私が引き取ることになった。

その時に、慰謝料などの話は無く婚姻関係を解消するだけでいいという形で離婚することになった。

離婚後の生活

離婚後の面会交流

離婚当初は、子供は3歳でまだまだ母親がいないと寂しい時期でした。

子供が「ママはどこに行った」「いつ帰ってくる」「ママと話がしたい」など頻繁に言うようになったのが離婚後3か月頃から。

3歳の子供に離婚を理解させることはできないし、こちらの仕事も忙しく保育所と私の母親が、育児をすることがほとんどの生活が続いていた。

元妻は、遠く離れた場所に住んでおり、容易に合わせる事が出来ない環境だった。

離婚後半年ぐらいして元妻に私から連絡をして、子供がこのように言っていて子供に会ってもらえないか相談した。

はじめは戸惑いを持っていたが子供に会ってくれるようになった。

数か月1回は、子供に合わせて一緒に遊んだり、旅行に行ったりと子供に負担を掛けないよう配慮をしてきました。

再婚をする意思は、お互いに全くない状況で子供のために会っていると考えていた。

そのような生活がしばらく続いて、神戸に住んでいた私は阪神大震災で被災しました。

阪神大震災で被災

自宅の倒壊や火事には遭遇しませんでしたが、水や電気は無くかなり苦労しました。

建設関係の仕事をしていたので災害復旧の応援を余儀なくされた。

余震も続き不安な生活も続き、なかなか安定した生活が出来ず苦悩な毎日でした。

当時の震災復旧の支援をしていたが、元請けからの支払いが滞ることもあり、父の会社が倒産することになり、家族離散状態になり家族の誰とも連絡が取れない状況になった。

いきなり仕事も無くなり、子育ても自分一人でしないといけない状況になった。

当然、生活はままならず路頭に迷う状況になった。

そこで、仕事を見つけ少し生活が安定するまで一時的に元妻に子供を預かってもらえないかと相談した。

すると元妻は、こちらに来て両親や家族と一緒に話しをして欲しいと言われ元妻の実家に向かいました。

話しは冒頭から向こうの両親が

「子供を奪い取ったくせに困った時だけこっちに助けを求め子供を預けることを頼むのは図々しい」

「親としての責任感が無さすぎる」

「子供は、道具じゃない」

「子供は親を選べないので責任感が無い」

など震災で苦しみ生活困難で苦労してきた私に対してとてもひどい言葉を浴びせ立てられ心身ともに冷静にものを考える事が出来ない状況まで追い込まれました。

そして、元妻の家族から突き付けられた条件として

「親権をこちらに渡すこと」

「2度と子供に合わない」

「今ここで決断しここですぐに念書を書け」

と迫られこの条件が飲めないなら子供を引き取ることはできないと言われた。

その間、元妻は一言も言葉を発することなく横で聞いていた。

情と言うものは一切なく、被災者の弱みに付け込んでこのような酷い仕打ちをされ、とてもつらい気持ちになりました。

被災地で被災を受けた人にしかわからない事情や状況、生活環境の急変などをくみ取ることも無く、責め立てる行為はただの弱い者いじめ。

当時は、保育園なども充実しておらず今のような24時間保育があればよかったのですが、そのような施設はほとんどなく本当に大変でどうしようもなかった。

私は意を決して、本当に困り相談をしたのになぜという気持ちでいっぱいでした。

親権喪失

このまま子供を連れて帰り頑張って生活をしようと考えた時に、職が決まらず収入が無い今の現状を考えると、餓死するかもしれないや子供の健康状態を守れるのかなどの不安がよぎり先が見えない状況で悩んだ。

精神的にも追い込まれて、最善策を探し決断し冷静な判断が出来る状態ではなかった。

年に1回でも会うことが出来ないのか、電話で子供の声を聞くともできないのかなど提案したが全て断られた。

精神的にも追い込まれ今のここで決意し相手の提案を飲まなければ、子供の安全が守れないのは確実だったので、相手の言う条件に同意して子供を引き渡すことにした。

この後、元妻や子供とも一切会っていないいないし今も生きているのかわかりません。

終わりに

当時は、ネットで何かを調べたり相談できる場所というのが少なく、離婚について気軽相談できる環境はありませんでした。

今のように、離婚協議書自動作成サイト 愛と契約web で、チャットボットから気軽に離婚専門家に相談できる時代をうらやましく思います。

もし、当時、弁護士さんに話をして最善の方法を見つけ出す方法を探していればこのような最悪な結果にならなくて済んだのではと後悔します。

今では気軽に相談が出来て、一人で悩まずに最善の道を選ぶことが出来ると思います。

離婚体験談 G
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